先週末は代表ブログをお休みしました。ついに我が家にも新型コロナの波が押し寄せたためです泣
発生源は私で、料理をしてくれていた長男が感染(発熱があったためおそらく)し、次男は最低限の接触で済んだためか感染せず、でした。
症状としては急激な悪寒や関節痛ののち発熱1日半、その後、食欲がなくなるほどの咽頭痛。という感じ。全快までにはそこからまた数日かかりましたが、長男が感染してしまったのでそんなにゆっくりもできず。
日本では、すでに2500万人が感染し、5万人の方が亡くなっています。
令和3年10月現在の総人口が1億2550万人ですから、2割近くの方が感染しているという状況。
無症状の方や、無診断の方も含めるともっと多いのではないかという予想は容易です。
ワクチンについても様々な考えがありますし、マスクの着用や学校での黙食など、いろいろな場面でいろいろなことが議論されるようになりましたね。
そんな場面を見るたびに感じるのは、日本人は本当に「議論する」ことが苦手だな、ということ。
その理由を考えると、「議論する」ことと「論破する」ことを同じように捉えている人が多いのかなという印象です。
2ちゃんねる創始者のひろゆきさんは「論破する」ことで有名ですが、それはそれぞれのメディアの目的がそこだからであって、誰彼構わずかみついて論破しているわけではないはずで笑
「議論する」というのは、より多くの視点でその事柄を分析し、理解を深めることなのではないかと私は思っていて、その上で結論を出さなければいけない場合も多いですが、結論やその先の行動は個々に委ねる場合だって少なくないと思うのです。
それこそが多様性を認める、ということではないでしょうか。
AとBとCの選択肢があって、それぞれのメリットデメリットを伝え合う。Aが良いと思っている人にはない視点を、BやCが良いと思っている人はきっと持っていて、それぞれの視点を提供しあった上で、「いろんな考えがあるけど私はAかな」までが議論。
その先にBやCを選択した人を攻撃する理由はないはずです。
そこに「Aを選択した自分自身に対する不安」はないでしょうか?
それがないなら堂々と、「私はAです」で終わればいい。
今回、自分自身がコロナになって長男にも感染させてしまったことで、ワクチンに対する考えがまだまだ浅はかだったなと反省しています。
もっといろいろな知識を得た上で選択しなかったからこその感情もありました。
日本人がもっと「議論」のスキルを上達させることができたら、この日本はもっともっと素敵な国になるのではないか。
新型コロナに感染したことで、「日本人の議論のスキル」を考える機会をいただけたのだとしたらこんな機会も悪くないなと。
まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」笑
いや、この反省は必ず活かさねば、と思っております^^;
ご心配をおかけした皆様、大変申し訳ありませんでした!!